『正義の見方』 宮崎哲弥

洋泉社 1996/7/30 流し読み A5 ハードカバー B- 1800 *****図書館 03/07/04

第一部 夫婦別姓大駁論 第二部 ぼくらの「宗教」戦争 第三部 騒がしい話題

最初の数頁で、なんだか気に入らないものを感じる。なんだか微妙にカンに障るような気がする。そして気づいた。私が書くものと似ているということに。だれだかが上から見た物言いは人によっては嫌うかも、みたいなことをいっていたが、こういうことか、と納得。

第一部が論理展開としては一番好ましく読めた。そもそも明治になる前、大半の日本人に姓はなかった、というよく考えれば当たり前の話に膝を打つ。そしてここ橋川文三で、「戸籍法の制定こそ、納税と徴兵の担当者として、民衆の一人一人を国民として掌握するためにとられた最初の手続きにほかならない」とある。こうなってくると女権論者の槍玉に挙がる封建制というものが、呉智英が「封建主義は民主主義のネガである」と喝破した以上に見えてくるような気がした。もっとも、福島瑞穂をいくら叩いたところで何にもならないような気がする。この本を手にするような人は、もともと福島瑞穂なんか眼中にないだろう。出典は宝島30、正論、発言者。うーん。こんな小物しかいなかったっけかなあ。福島瑞穂田嶋陽子土井たか子あたりが嫌いな「保守的」な人を喜ばせる文ではあると思うが。マイナーでももうちょっとましな相手を叩いた方が、議論は深まるような感じ。とはいえ、論理的に話が進んでいるのでよい。

第二部、オウム。もう旬じゃないのでかなりどうでもいい。オウムの位置づけをどうこうしたところで、今更何にもならんだろう。もっとも、1996年と2003年のタイムラグは致し方ない。

第三部、戦争責任。一番引っかかるところ。「戦無世代に戦争責任はあるか」。宮崎は「ある」という。直接自己に関わってくる関係の限度内でおのおのが戦争責任を分担分掌すべきである、という。まあ思想的な問題だからリアリティは必要ないんだろうけど。どうもこういう考えにはついていけない。私が思うに、戦争責任という言葉は日本人の間でこねくり回されるうちに余計にわけがわからなくなっている。その時何をすべきか、分担分掌して責任を負いましょう、では一番大事なところが抜ける気がする。また、韓国や中国(得に韓国)のいう戦争責任というものが結局日本人には理解不能なんじゃないか。日本の戦争責任は、彼らの国家神話の一部をなすものである。金を払えばいいのかといえば、金の問題ではないといい、謝ればいいのかといえば、誠意が必要という韓国人がいる。どうも韓国人自身が朝鮮支配の具体的事実以上のことはよく分かっていないと思わざるを得ない。だから私は神話という。日本は何をしてもムダなんじゃないか?政治家はそれに気づいている。だから政治家はとりあえず謝罪外交する。そして、その舌の根も乾かぬうちに、「植民地支配良かった」というような「妄言」がでたり(絶対わざと言っていると思う)、靖国参拝が行われたりして、「バランス」をとろうとしているんじゃないか。

日・中韓の齟齬を埋めようとするのが、戦争責任を認めようとする立場なのだろうか。例えば、小林よしのり、大東亜戦争賛美史観を展開している。これは中韓との歩み寄りを拒絶する方向でのコミュニケーションの取り方のような気がする。もう彼らの言うことは理解できない、と諦める姿勢なんじゃないだろうか。大東亜戦争を誉めあげるその情熱とは裏腹の冷たさをはらんでいないだろうか。

実際問題として、靖国参拝が深刻な経済摩擦の引き金になった、なんてのは余りきかない。結局激しい摩擦はセーフガードの時に起こるわけで。やっぱ金だよなあ。

めんどくさくなったので締めくくる。この本はすっかり古びてしまっている。何故か。ネタが時事だから。そりゃそうだ。しかし、そのネタから古びないテーマを引き出すのが評論家の使命ではあるまいか。例えば呉智英の本で叩かれている人間は、さして有名ではないし最近は見かけない者も多い。でもなぜ彼の論が古びないかというと、民主主義という問題を鋭くえぐったからに違いない。1970年代、2000年代、民主主義の問題は何にも変わっていない。多分これからも変わらない。だから呉智英の本は古びない。数年であっという間に古びた点で、BからB-にランク落ち。もっと大風呂敷を広げて欲しい。

7/6追記 要は私が、戦争責任云々の問題を、色々な論客が言っているほど重要なこととは思っていないということに気づいた。さも重要なことのように取り上げるのが疑問だったわけだ。賠償とか金の問題になれば別。

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