『マリア様がみてる 黄薔薇革命』 今野緒雪

集英社コバルト文庫 1999 通読 文庫 ソフトカバー B \419 借 04/1/17

事実上の『マリア様がみてる第2巻』である。

このシリーズの基本的世界観に関しては、『マリア様がみてる』の項で考察したのでそちらを参照されたい。今回も基本路線は変わらず、その後の日常、そして非日常である。あらすじ、「『理想の姉妹』賞に選ばれた黄薔薇のつぼみの支倉令とその妹の島津由乃が、突然姉妹関係を解消したのだ!二人の影響を受けた少女たちが自分のお姉様にロザリオを返す事件が相次ぎ、学園中が大パニックになるが!?」ということである。

今回の出色は、写真部蔦子の高校生らしからぬ考察である。支倉令と島津由乃の影響で姉妹関係解消に走る連中を彼女が冷ややかに断を下す。

「ただ感化されているだけなんだけど、全部自分で考えて出した結論なんだって思っているはず。もちろん、由乃さんと令さまの一件はちゃんと頭に入っているのよ。けれど、それは単なるきっかけにすぎない、って考えているんじゃないかな。彼女たちはね、きっと昨日今日思いついたくせに、自分は以前からお姉様にふさわしくない妹だと悩んでいた、って言うわよ。だから、今こそ身を引く時だって」
「快感があるんじゃない?悲劇のヒロインみたいでしょ」
「それだけ日常が退屈なんじゃない?ちょっとした刺激が欲しいのよ」

どうも、蔦子の家にはメディア論の大学教授が家庭教師に来ているのではなかろうか、と思わせる分析である。学校教師だってこんなことはそうそう言えるものではない。「悲劇のヒロインぶっている」ということは誰でも思いつくが、「自分の考えだと思ったことがちっとも自分の考えでないという可能性」を考えられる知性というのはそうそう持てるものではない。世の「お嬢様」に足りないのは知性である。金持ちの娘だから令嬢、お嬢様、というのは別に自慢にもなんにもならない。それは単なる「金持ちの娘」である。お嬢様学校に通っているからお嬢様、というのはもっと笑止である。一億総中流の世界で馬鹿馬鹿しい。お嬢様を名乗るからには知性や教養が必要なのである。つまり、金がある→生活にゆとりがある→ゆとりがあるから勉強が出来る、考える時間がある→教養と知性がある→だから万事有能でもある→金を稼げる階級の男と結婚できる→金がある、の循環を成り立たせることが出来るのが、真のお嬢様である。一代限りの金持ちは成金であって貴族ではない。「金を稼げる階級の男と結婚できる」というくだりには批判もあろうが、貴族は生産活動に従事してはいかんのである。生産活動に従事すると忙しい、忙しいと、無駄な教養をつけてる暇はなくなる。労働は労働で面白かろうが、貴族の仕事ではない。あえて労働者階級になることはないのである。

どうでもいいが、一巻で蔦子は自分で部室でフィルムを現像したと言っている。ということは蔦子は現像液の刺激臭に常に包まれているのだろうか?およそリリアン女学園にふさわしくない振る舞いではある。だが、それがいいw

今回は福沢裕巳以外の人物の一人称語りと三人称語りも入ってくるのだが、これは失敗だと思われる。どうも浮いている。話の流れを中断してしまっている感がある。恐らく三人称でこのシリーズは書き得ないことは分かるのだが、複数の一人称語りを混在させるなら、もっと技巧が欲しかったところではある。島津由乃の一人称語りが添え物のようであるところがよろしくない。それならばむしろ複線的に一人称が交差していく構成の方が良かったのではないか。

あとがきに、こうある。「インターネットの某ページに、『マリア様がみてる』のことが記載されていて、「ソフトだけど完全に百合」というコメントが添えてあったのには笑ってしまった。最高の褒め言葉です。ありがとう」と。やはり私が考えたように、著者はこの小説を、百合のつもりで書いていたわけではないようである。結果として得られたソフト百合としての評価に甘んずるのではなく、固定読者に媚びてただ冗長なだけとなった多くのシリーズものの轍を踏むことなく、いい小説を書き続けて欲しいものである。

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