『傭兵の誇り』 高部正樹

小学館 2001/12/20 通読 A5 ハードカバー A- \1500 **区立**図書館 2004/4/19

大変よい。なんというか、タイトで、衒いのない文章はヘミングウェイを思い起こさせる。まず衝撃的な真実は、「傭兵は金のためになんか戦っていない」ということ。給料は恐ろしいまでの薄給(例えば月数千円から数万円)だったり、下手をすると無給。日本で稼いで、その金で傭兵に行く、戦場バックパッカーと本人自身が揶揄している始末。そして待っている待遇はといえば、「見殺し可能な便利な部隊」であり、「正規軍の盾」である。それでなぜ、傭兵をやるのか、という心の叫びがこの本にある。

著者はちゃんと魂を込めて文章を書いている。例えば202頁、戦火にさらされた人々に、傭兵達が罵倒を受ける。著者は言う、「彼らの気持ちはよくわかる。しかし、心の中では非常にムカついていた」と。208頁、章の締めくくりにはこうある。「だからといって、我々が彼らの言動を特別気にしていたわけではない。所詮民間人は我々とは違う類の人種だ。そう思えば、別に何を言われても腹も立ってこない」 これでは自己矛盾である。だが、理屈でない感情の起伏が感じられて、かえってリアルかもしれない。

ただ一つ、同意できぬ事柄は、次の文章にある。

いくら正義を振り回しても、それは所詮言葉を弄するだけのまやかしだ。彼らの言葉が説得力を持たないのは、そのようなところに起因しているのだろう。偉そうに自分の語っていることを本気で思っているのなら、まず行動に出るべきだろう。言葉や文章で戦争は終わらないし、またなくなりもしない。命がけの男達に語るのならば、また自分たちも命を懸けるべきだ。言葉で言うだけでなく。

これは、戦場にいる男の叫びとしては、それなりの意味を持とう。映画「ランボー」で主人公がトラウトマン大佐に心情を吐露した時のような感動もあるかもしれない。しかし、あらゆる状況に耐えうる真理とは認めがたい。こう叫ぶ一方で彼は、傭兵が単なる「駒」であることを容認しているのだから。よし、外野からあれこれ言うだけで戦争は終わらない、だが、「駒」に、「将棋の歩」に、戦争を終わらせることもできないだろう。行動することや、現場にいることを、正義の隠れ蓑にしてはいけない。それでは彼が嫌う木村太郎や田嶋陽子と同じ穴の狢になってしまうぞ。隠れ蓑にする道具が違うだけで、やっていることは一緒だ。よし、言葉や文章で戦争は終わらないし、またなくなりもしない。しかし、木村太郎が戦争を終わらせることが出来ないのと同じ程度に、傭兵の彼にも戦争を終わらせる事など出来ないはずだ。

現場にいる者に遠慮して、その者への批判が出来なくなったら、まずい。兵隊さんに遠慮して、軍部の横暴に文句を言えなくなるというようなことは、まずい。むしろ、みんな無責任に言いたい放題言っているくらいの方が、なんぼか健全なのだ。そんな中からもごくまれに、まともに聴くべき意見が出てきたりするからだ。木村太郎を責めるべきは、彼の意見が妥当性を欠くからであって、彼が「現場にいないで批判をすること」にはない。彼は木村太郎に反駁する理論をちゃんと持っている。「最強の男」になりたいから傭兵をやっているのだと彼は言う。木村太郎への反駁はこれでいい。これは俺の自己実現なんだと。職業に貴賤があると貴様は言うつもりか、と。現場の正義を持ち出さなくたって、「なんで日本人が傭兵をやるの」論に反駁する事は出来る。

以上の苦言を呈したい部分を除けば、全体的に同意も出来るし、面白い本である。まあ日本批判みたいなものを本に含むのは、連載がSAPIOだったせいかもしれぬしな。

傭兵の誇り
傭兵の誇り
posted with 簡単リンクくん at 2005.12.15
高部 正樹著
小学館 (2001.12)
通常2-3日以内に発送します。

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