『知とは何か 三つの対話』 P. K. ファイヤアーベント著 村上陽一郎訳

新曜社 1993 通読 A5 ハードカバー B ¥2884 A区立図書館 04/8/18

対話篇なのだが・・・・ムツカシイんだよな。いや、言っていることは大体分かるんだが、時々つまづく。情け容赦なく読者に一定水準の教養を要求するところがある。例えばp283、ヴァルトハイムの話が出てくる。当然、この話は、国連事務総長を勤めた、オーストリア大統領となったヴァルトハイムが、実は過去にナチ将校だったという事実を知らないと意味が分からないだろう。そういうことが、どうもそこかしこにあるような気がする。訳注が欲しかったところである。

さて、私が読み解いたところでは、科学と言えども唯一絶対の真理ではなく、煎じ詰めていくと科学の根底にも証明不可能な公理や、科学者自身の根拠薄弱な確信があるという話だ。さらには現在科学と認められていない各種の体系が、一定の背景や訓練を以てすれば大いに科学と同じ程度の有効性を持ちうるはずで、これをよく調べもせずに唯一絶対の科学信仰に基づいて批判してみるのは間違っている、というのが著者の主張である。これを示すために引用される例が読者の興味をひくだろう。顕微鏡を始めて覗いたとき、図鑑に載っているような生物はちっとも見えなかったが、訓練を重ねるにしたがってそう見えるようになった。つまり、ただものを見るということでさえ、一定の訓練を必要とする。古代ギリシャの神々は実在しないと言う批判者Aに対して、大まかなところでファイヤアーベント代弁者のBは、だがギリシャの神々はあれだけ具体的な姿をとって彫像などに残っている、ギリシャ人は顕微鏡の例のような訓練を受けて、神々の存在という現象を体験していたのだと反駁する。

また著者は科学、人道、道徳、民主的徳目を教えるときでさえ、「正当なバランス感覚」を要求する。徳を教えるときは交通規則を教えるように教えるべき、という。徳についてさえ、プラスとして得られたものとマイナスとして失われたものがあり、その双方について分かって欲しい、分かるべきだという。よき教師はある生の形を人に受け入れさせるだけではなく、それを拒否する方法をも伝えるものだと著者は言う。

なるほどここにあるのは単なる相対主義、シニシズム、ニヒリズムの類ではない。強い理想主義である。ファイヤアーベントの言う社会を作るのは難しかろう、だが、現状を批判する視角としては有用である。科学的、非科学的と批判などするときには心にとめておきたい。文学や詩は科学ではないが、違ったやり方で生や社会の真実を伝えるものである、安直な科学・非科学の区分を著者は否定する。

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