『少女論』 飯沢耕太郎・小浜逸郎・堀切直人・金塚貞文・橋本治ほか

青弓社 1988 部分読み B6 ハードカバー B 1600 *****図書館 03/8/16

・少女語り 本田和子 ・写真・少女・コレクション 飯沢耕太郎 ・夢想する身体 倉林靖 ・少女映画から遠く離れて 藤崎康 ・主題としての少女 小浜逸郎 ・女は度胸、少女は愛嬌 堀切直人 ・<<あえかなるもの>>の行方 谷口孝男 ・眠らぬ都市の少女達 金塚貞文 ・都市を浮遊する少女達 瀬尾文彰 ・神聖少女都市ナルシッサからの帰還 渡辺恒夫 ・迷宮の中の家出少女 橋本治 ・少女流謫 種村孝弘 ・囚われの少女さまざま 矢川澄子

80年代にはそういう雰囲気があったらしいが、ロリータについての本。表紙からしてヌードである。裏表紙に至っては少女ヌードくさい。今では児ポ法違反であろう。

いろんな人の論説が掲載されているが、読むべきは飯沢耕太郎、小浜逸郎、堀切直人、金塚貞文、一歩下がって、藤崎康、谷口孝男、橋本治といったところか。一番最初に載っている本田和子ってのはなんなんだ。最初の1ページ読んだだけで、ぶっとばしたくなる。妄想の垂れ流しは脳内にとどめて欲しい。この最初の文章でで随分損をしている本だ。

飯沢耕太郎は強烈なオリジナリティとか新鮮さとは無縁だけれど、よく勉強しているし読みやすい。この書の解題としてふさわしい文章である。これをこそ、本の最初に持ってくるべきだった。まあそれはいい。要は、少女-コレクションという暗合があり、渋沢龍彦曰く、「小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受け身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである」という少女の「純粋客体」性を彼は示す。それを助けたのが写真技術である、という点には確かに納得できる。少女をコレクションするといって、現実の少女をコレクションすることは出来ず、そこで写真としてコレクションし、それが新たな対象となったということ。

堀切直人は、女学校の登場が、「少女」という存在を近代日本に登場させたとする。子供でも大人でもないモラトリアム期が成立し、少女という新種が人知れず純粋培養されるようになったとする。ここではぐくまれるエロチシズムやセンチメンタリズム、ナルシシズムは結局、少女マンガ、宝塚その他に少しも色あせることなく依然として生きながらえている。バーバラ・ドゥーデンは始めて知ったのだが、面白そうである。善良で優しい家庭的女性という像は近代以前にはまったく知られていない人類型だったというのだから。堀切は続けて、グリム童話の原本が改定される過程を通じて、「無力な女」の成立を探る。

総じてこの本のえらいところは、この手の連中にありがちな「ロリコン万歳」的ムードに溺れていないこと。まあそうだったら読んだりしないのだけど。ちゃんと対象との距離をとっている。でもどうだろう、所謂「ロリコン趣味」といったものは克服さるべきもの、と捉えているあるいは期待している論者もいるのだけれど、88年来、その期待は裏切られたとしか言いようがないのではなかろうか?この本とは関係がないのだけれど、呉智英が初期の著作で、主婦といえば主婦売春であり、白昼のもだえでありイヤラシイ、女子高生にはそうしたイヤラシサはない、と断言しているのを思い出す。そのころには、「女子高生」はイヤラシクなかった!今言うところの援助交際=女子高生売春に全くリアリティがなかったようなのである。それが90年代、21世紀にかけてあっという間に浸透してしまい、売春といえば女子高生みたいなムードも完成している。だからこの本は今もう一度書かれなければならない。この問題を宮台にだけ任せておいていいものだろうか?

全体の話としてはさほど感銘を受けなかったけれど、藤崎康の「フィルムとともに息づいていた少女を、運動その物であるフィルムから切り離し、欲望の対象とすること。それはつまり、像として固定された少女に執着することであり、いってみれば死体愛好症的な身振りである」というのは成る程と思う。

まあ玉石混淆ということで、全体としてはB評価。著者別にAからDまで多彩。

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