『戦場の精神史 武士道という幻影』 佐伯真一

日本放送出版協会 1996 通読 A5 ソフトカバー A \1120+税 A区立図書館 04/12/1

時は鎌倉時代、朝鮮半島から元の大軍が九州に押し寄せてきた--日本の武士達は当初一騎打ちを挑み、元軍の集団戦法に苦しんだ。

てな話が元寇の公式なストーリーになっているわけだが、誰しも違和感を感じるところである。戦争をするというのに、一騎打ちもへちまもあるもんか、何をバカなことをやってるんだ、と誰しも思うはずである。思いはするが、当時の日本の武士はそういう決まりで戦っていたんだ、と言われれば何となく納得していた。

が、この本はそんな常識を覆す。そんな馬鹿な話はない、と。著者は一騎打ちという戦争のスタイルがあったことを否定する。武士が名乗りをあげる、これは言霊信仰に基づいた、一種の戦いと著者は解釈する。そして、例えば鎌倉時代、武士が単なる武装した郎党から、主君を持ち、禄をもらう集団へと変容していくときに、功名争い--誰が手柄を立てたか--の一環としてそうした場面が現れたという。

そして、一騎打ちなどというものは殆ど武士のルールとしては成り立っていなかった。例えば軍記物にさえ平気で集団で一人を倒してしまうようなシーンが現れる。このあたりの手際はうまい。わけのわからん零細な史料を持ち出してあやしげな議論をするのではなく、活字になっているような一般的な文献から、新しい視点を引き出してくる。並大抵の手際ではない。そして、学説に関しても丁寧な目配りをし、簡潔明瞭に解説し、認める部分は認め、補足したり反論したりしていく様は、一般書のレベルを遙かに上回るできばえ。それが本書の説得力を醸し出している。思いつきを並べた本でないことは一目瞭然である。皮肉もさえていて、「集団見合いで似合いの相手を捜す男女のように、武士達がたがいに釣り合う敵を見つけるまでは戦闘もせず、あちこちで名乗りあったり、対戦を断られたりしながら戦場をうろつき回る--などという情景は、漫画というほかない」「(一騎打ちの生き生きとした騎射戦の描写が)合戦の全体像だと思ってしまうとするならば、それは、たとえば名選手によるPK戦をサッカーの全体像だと思いこんでしまうような誤解である」。などなど。なかなか冴えた比喩というべきである。

そして終盤、やや専門外だと臭わせつつも、近代以降の「武士道」の変容についても、ナショナリズムとの関連が示唆されていて興味深い。そもそも、日本中世の文献に武士道なる語は殆ど現れない。

結論だけ言うなら、一騎打ち主体の戦争観は間違い、正々堂々戦っていたというのもある種間違いで、それなりのルールはあったけれど破られることも多かった、武士道なんて言葉は曖昧もいいところで、めいめい勝手に定義している、というくらいにまとめられてしまうのだけれども、そこへの持っていき方が精緻で丁寧で、それ自体面白い。その中に様々な示唆を含む。例えば、古代において大和の軍勢が蝦夷を討つようなとき、異民族、もっといえば人間ならざるものを討ち果たすかのような意識がなかったか、というのもいい指摘だ。平家物語の武士達が、ルールのようなものを形成して戦っているのは忠義だとかそんなものよりはむしろ、個人の勇気とか自己顕示の精神による縛りではなかったかなど、いろいろ考えさせられる。

最終章をもう一歩突っ込んで、武士道という曖昧な観念が、特に近代の日本人にどういう影響を与えたのか、ラストサムライなどというものも作られたことだし、考えてみると面白そうである。

戦場の精神史
戦場の精神史
posted with 簡単リンクくん at 2005.12.15
佐伯 真一著
日本放送出版協会 (2004.5)
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