『猫はなぜ絞首台に登ったか』 東ゆみこ

光文社新書 2004 通読 新書 新書 D \740+税 E区立図書館 06/1/14

ヨーロッパでは18世紀半ば、今で言う動物虐待が盛んに行われていた。中でも奇異なのはパリの印刷工場での出来事で、底につとめる職人たちが猫を集めてきて裁判をおこない、絞首台につるす。この事件は、なぜ起こったのか?

という本で、途中までは結構面白い。ホガース(googleイメージ検索)の版画なんてのも図版入りで紹介されていて面白い。で、動物の残虐行為を今と同じ視点で眺めていてはいけませんと著者は言う。ここまではいい。ではなぜでしょう、と説明に入ってから、呆然とする。神話学というのは妄想の産物ですか?と疑いたくなる。

ダーントンとかいう人の説がもったいぶって紹介されるが、要はブルジョワ対プロレタリアートの衝突である、という説明。著者もその説を最終的には否定するのだが、多くの良識ある人なら即座に論外の烙印を押すような説明である。

で、ダーントンに代わる著者の説明は、ゲルマンの神話や習俗の中にあるというものだ。北欧神話ゲルマン習俗を数十ページ解説したあと、「結果としてそれは、そもそも儀礼的な側面を有しており、犯罪者に対する処罰を超えたものでした。首をつる人にとっては、新たな生を得るためのイニシエーションであり、まわりの人々にとっては、オージンへの供儀を示唆していたのです。つまり、猫が絞首台に登ったのは、ゲルマンのオージンの神話やそれにまつわる風俗が源となっている、ヨーロッパの神話的思考のあらわれとみなすことが可能なのです。十八世紀なかばの大都市に生きる人々は、意識すらしないうちに、『神話の力』とかかわっていたのかもしれません」

何言ってるの?という感じである。一つには、タイトルからはwhyの説明がなされると思っていたのに、howの説明しかされていないことに対する違和感がある。じゃあ神話的思考ってどこから・どうして現れたの?という問いが大事なんじゃないの?ろくすっぽ教養もない職人連中は、我々のように体系的にゲルマン・北欧神話を把握できるはずもない。習俗の中にそれが生きていたというのがおそらく著者の主張なのだろう。で、本書によると習俗というのはつまり動物虐待とか動物裁判とかそういうものってことでしょう?整理しよう、猫がなぜ絞首台に登ったかというと、北欧・ゲルマン的習俗・神話のせいであり、それが18世紀ヨーロッパのどこに存在したかというと、人々の習俗の中にあった。そして、その習俗の中に生きる神話的思考のせいで猫殺しが起こった、そしてこの猫殺しこそが神話的思考の象徴である・・・こういうのは論点先取というんじゃないでしたっけ?著者が証明しなければならないことは、猫殺し以外のどのようなところに北欧・ゲルマン神話が生きているかということだろう?

もう一つには、神話的思考とやらの説明が実にしょうもない。少なくとも私にとっては説得力ゼロ。阿部謹也先生の時には、感動にうちふるえながら新奇な説でも受け入れられたものだったが。猫を裁判して殺したのはオージンへの供え物です!って、何が新しいって意味がわからないところが新しいけど。うまく言えないんだけどナンセンスっつうかさ、「トムは2で割り切れる」というような意味のなさ。

もっと常識的な説明で片が付くんじゃないかと思う。犬猫は当時の下層社会の人にとっては、人間様と同じ「生き物」じゃなかったんじゃないの?今だって我々は蚊や蝿を良心の痛みなく抹殺するし、あるいは一方で鯨に対して異常な愛を注ぐ人たちもいる。同じことじゃないの?ましてその虐待が、気に入らないブルジョア階級の飼い猫だったらさらに格別、というのならよーくわかる。犬猫その他畜生がどうやって生き物としての権利を獲得していったか、それを辿る方が賢明だと思うなあ。

多分だけれども、レヴィストロース以外の人がレヴィストロースまがいのことをやると、こういう意味不明が立ち現れるんだと思う。私は、心理学の次に神話学を信用しないことに決めた。06/1/14

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