『日本人に一番合った英語学習法 先人たちに学ぶ「400年の知恵」』 斉藤兆史

詳伝社 2003 通読 B6 ハードカバー C+ \1365 A区立図書館 05/2/6

結論には賛同できるのだが、そこに至る理屈が全然なってない。著者は言う、コミュニケーション重視の英語だなどといって、間違った英語を教えてもしょうがない、相当の努力と時間を傾注しない限りまともに英語を使えるようにはならず、たとえそうしたとしても「バイリンガル」などにはなれない、日本語と英語は異質なものだから、今までの文法重視の教育があって、それ自体間違ったkとではない、日本語能力が高いほど、高度な英語力を身につけられる、などなど。

全部正しいと思う。「小器用に日常会話だけはこなすことができるものの、高度な議論にはまったくついていけない、低級な英語使いが大量生産される危険性がある」などと挑発的な意見も、小気味よい。「誰も小中学校の音楽の授業で養った音感で音楽家になろうとは思わないし、美術の授業で描いた水彩画がそのまま芸術作品として通用するとは思っていない。ところが、こと英語となると、多くの人は、中学・高校で六年間もやらされたがさっぱり実践で役に立たないと文句を言う。そして、そのような不満に支えられた低劣なオーラルコミュニケーション中心主義が、小学校への英語導入の中心理念となったのである」という分析も鋭い。

第2章で、伊藤博文、森有礼、神田乃武、津田梅子、南方熊楠、小泉八雲の英語の学び方が紹介されるのだが、ここからが問題である。下手に英語漬けにすると、日本語が話せなくなる実例や、驚異的な努力でようやくネイチャーに寄稿できるまでになった南方など、それぞれのエピソードに魅力はあるが、これらが第三章に結びついていかない。第三章ではコミュニケーション英語教授に対する呪詛がつづられていくが、正しいけど理屈が詰められていない。

というのも、タイトルに問題があるように思える。400年の知恵=素読・暗唱・文法・多読という結論なのだが、英語教育は今まで(オーラル重視以前)のままでいい、とまでは書いていない。肝心なところをあやふやにされている気がする。英語を生半可な努力でものにすることが出来ないのは分かった、だが、ではどうすればよいのか、がきちんと答えられていない。ただ一言、英語は必要な人が必要に応じて学べばよい、と言ってくれればすっきりするのだが。教育を考えていくと、なぜこの科目が必要なのか、というところを避けて通ることはできない。読み書き算数だけでいいんじゃないの、という問題提起にどう答えるかが難しい。そこを避けて通って、英語は素読・暗唱・文法・多読で学ぶのが正しい、と言われても、はぐらかされた気分である。英学者としては、英語不要論をぶちあげるわけにもいくまいが。

そんなわけで全編「もっともな愚痴」「もっともな文句」に終わってしまった不幸な書。まあこのページ数では無理もないのだが、もっとやりようはあったように思う。

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