『現代人の論語』 呉智英

文藝春秋 2003 通読 A5 ソフトカバー B+ 1100 A区立図書館 04/7/17

一読物足りない印象があるのだが、二読、なるほどなかなか深いと感じさせられる。

この本で語られるのはお説教めいた儒教のセンテンスではなく、思想家としての孔子、思想集団としての孔子の弟子達の姿である。著者は孔子没後の弟子達の言葉から、孔子という個人によってどうにかその形が保たれていた思想が、孔子の死によって解体していく様を見て取る。「学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや」の句を、勉学推奨と解することを退け、礼の実践=支配者の専権事項の予行演習=クーデターと等質の行為?という説に賛同する。「博奕なるものあらずや。これを為すは猶已むにまされり」の博奕を、博打と解するのではなく、未来を賭ける行為としての占いとし、孔子思想の足の下はすぐ呪術思想であったことを指摘する。

孔子という人物の物語として論語を捉える視点は、日本には少なかったのではないか。聖書は確かにキリスト教徒にとっての教典であると同時に、人間イエスの物語であるのと同様、論語もそのように読むことができ、そのように読んだ方が解釈がたやすい場合もあったろうに、儒教として形式化が進むにつれて、論語は教典としての役割だけを押しつけられてきた。著者はそれに対抗する形でこの50章を書いた。経学儒教の中では不明瞭になりがちな各弟子のパーソナリティーを鮮やかに描き出す。儒教が支配者道徳になってゆくにつれて黙殺され、ゆがめられてきた革命的言辞を取りあげて再解釈する。

著者も老成の時かな、という感じは漂う本ではある。若い頃の戦闘的な気配はない。1章も4ページ程度で短いものである。出来ることなら、今一度、全体を考察する大著を期待したいものであるが。む、ひょっとして著者のやっている論語塾に参加せよとの思し召しか?

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