『確率で言えば 日常に隠された数学』 ジョン・A・パウロス 松浦俊輔訳

青土社 2001/3/20 通読 A5 ハードカバー B 2400(900) 自 2003/07

一読、表題ほど簡単な本でないと感じる。それに訳が変だという直感を得る。再読、直感が確信に変わる。訳がおかしい。大体日本語としても下手なのだ。延々語尾が、「・・・する。・・・ある。・・・ある。・・・いる。」もうちょっとなんとかならんのか。リズムがないと読みにくいって。それに、著者は頑張って読者に語りかけようとしている。メジャーリーグやコメディの話をして、頑張って卑近な話を持ち出している。読者の方を向いて話をしている。悪い意味ではなく、読者にこびを売っている。それを全然訳していない。まるきり高校生の英語の授業みたいな無味乾燥な訳。

悪訳を乗り越えて読解したところに寄れば、著者の目論見は「統計・確率」と「物語」を繋ぐことにある。著者は言う。サッカー場の選手と審判の23人の中に、同じ誕生日の人間がいる確率はいない確率より高い、と。そして、近代小説は「物語」のご都合主義、偶然を廃する方向にあるが、偶然がないということがもっとも希有な偶然なのではないかという。25%の確率で200ドルもらえるよりも、20%の確率で300ドルもらえる方を選ぶという判断は妥当である。平均は前者が50ドル、後者が60ドルだから。しかし、段階を設けると話が違ってくる。第一段階で75%が脱落し、何ももらえない。そして第二段階では確実に200ドルもらえるか、80%の確率で300ドルもらえるか、とすると大抵の人は前者をとるという。このように我々は物語と確率とをうまく橋渡しできず、誤った判断をすることが少なくない。

こうした事例の個々は強い印象を与える。それが全体としてなんなのかまだつかみきれないのは、悪訳のせいか、あるいはもともとそういう本なのか。もうちょっと読んでみるつもり。

戻る ジャンル別分類へ戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送