『海民と日本社会』 網野善彦

新人物往来社 1998 通読 A6 ソフトカバー A 1800 *****図書館 03/8/17

海民と日本社会/海の領主/安藤氏と十三湊/能登の中世/東海道の津・宿と東西の王権/河海の世界 尾張・美濃/紀州の山村と海民/内海の職人・商人と都市/瀬戸内の島々 紙背文書にみる歌島/海上交通の要衝、宗像/世界に開かれた日本列島/新しい歴史学を拓く地域史研究

シンポジウムでの講演を主とした小論集。中には雑誌等に書かれたものもあるが、紙幅が足りない中に欲張った論証をしているせいか読みにくい。シンポジウムは論旨一貫、重複が多いが問題は少ない。何故なら、ここに書かれている話は奇妙な優越感をもたらしてくれるからだ。

網野曰く、百姓=農民ではない、百姓といわれるひとびとは海上交通等を利用する商人であったり、山で炭焼きをする工業者であったりと、多様であった。水呑と言われた人達は、貧しくて田畑を持っていないのではなく、田畑を持つ必要もない程に、「海民」としての商業活動が盛んであったのである。

といったことが繰り返し述べられる。数少ない史料から大胆に予想される「新しい中世」は躍動感溢れ、教科書史観を吹き飛ばす勢いを持つ。従来の史観、教科書史観に対する批判も随所に現れる。私が驚いたのは現行教科書が1958年の著作に基づく歴史記述をしているということだ。1958年ってあなた・・・40数年の間に新たに分かったことは山積みだろうに。マンガ『マスターキートン』で、歴史教科書の古代記述が「まるで原始時代の教科書だ」とけなされるシーンがある。すでにマンガを読む中高生にさえ、歴史教科書のあほさ加減は知れ渡っている。

だが、このことが本書を読む楽しみとなることは明白だ。この本は重複が多い。違うシンポジウムの講演で同じ事をなんども繰り返す。だが、それは不愉快ではない。読者は、みんなが知らない日本史の真実を知った気になって喜ぶのである。網野善彦を読んだことのない多くの人に対して優越している気分になれるのである。だから重複もさして気にならない。まあ読み飛ばしはするんだけど。

思うに、改定されるべきは教科書だけではない。ゲーマーにとって歴史知識の源泉、「信長の野望」をはじめとする戦国ゲームも改定されなければならない。今でこそ能登といえば交通不便、産業弱小の「裏日本」であるが、中世にはそうではなかった。海民が日本海を股にかけて活躍する商業の町があったのである。一向一揆は、百姓=農民の誤解から農民王国とされてきたが、実は一向宗の広がった場所はみな都市的な場所であった(p104)。

中世の女性もまた、男に支配されるだけの存在ではなかった。絹や布を売るのは女性であり、高利貸しもする。ルイス・フロイスは日本では夫と妻が別々に財産を持っていることを記述している時によると妻は夫に高利で金を貸す(p265)。江戸時代は「鎖国」ではない。アイヌを通じて北東アジアとの交易、朝鮮関係は津島を通じての交易、薩摩から琉球を通じての中国大陸との交易が盛んに行われている(p277)。それどころか「漂着」ということで、四国と朝鮮との交易まで行われていた。

こうした誤解が起こる原因は、農業発展が社会発展の原動力という見方にある。それゆえ、農業発展が起こってようやく商工業の分離が行われ、資本主義が勃興するという一面的な見方に偏ってきたことに問題がある。

あと豆知識として、「日本」という国号が決まったのは8世紀末だということは、著者の言うとおり覚えていてもいいだろう。

というわけで網野善彦はやはり噂に違わず必読と言える。

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