『放談の王道』 呉智英 宮崎哲弥 

時事通信社 1999 通読 A5 ソフトカバー B- \1500 A区立図書館 04/07/26

1.細片化する子供たち 2.生と死の臨界 3.オカルト・ブームの深層 4.新世紀へ向けて

なんか変な対談。決して内容が薄いわけではない、それなりに面白いことも書いてある。でもなにか読んだ満足感がない。

対談本に望むべきものがないのである。両者は大体相手の手の内を知っていて、そこから逸れないように(実のある対談をするために)、脇道に入らないように、段取りにしたがって話を進めていく。うむ、これこそが気に入らない点なのだ。これが「出来レース」の風情を醸し出している。「放談」と銘打つ割に奇矯な意見は出てこない。呉智英あるいは宮崎哲弥どちらか一人に語らしめれば、冒険主義的な一言や思い切った極論で読者を楽しませることもあろう。だがこの二人が集まって話してみると、どうにも妥当な意見になってしまうというのは、不思議というべきか当然と言うべきか。お互い相手の手の内やツボを分かっているので、極論・暴言の類は軽くいなされてしまうことが分かっているのだろう。それが、対談のダイナミズムを殺している。

したがって、「放談」というよりは「雑談」と称すべき対談本の出来上がりである。お互いキャラクターを殺し合ってしまった、不幸な対談。他の論客にわざわざ「先生」をつけて呼ぶのもイヤラシイ。イヤラシサが味を出すこともあるが、イヤラシイ「先生」付けの後に暴言も罵倒も出てこないので、ただイヤラシイだけ。

内容は悪くないんだけどねえ。例えば宮崎の、現行少年法の理念に基づく少年刑事政策はおおむね成功しており、少年事件の件数は若干の伸びを示すも、少年法を改定しなくちゃいけないほどではない、という意見には全面的に賛成。呉の、坊主や仏教を、アパートの隣人の諍いの仲裁や、嫁姑の愚痴を聞いてやるとか、そういう方向で坊さんが何とかならないか(近代の中に包摂できないか)、という話はなるほどと思う。

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