『文系のための数学教室』  小島寛之 

講談社現代新書 2004 通読 新書 ソフトカバー C+ 720+税  自 2004/11/30

頑張ってははいるが、空振りという感じ。

序章の棒グラフで積分を直感的に理解するというのはいい感じである。なるほど、学校で教わったのは闇雲に数字を操作することだけだった。“Σk日本全土=・・・”なんてな書き方をされると、確かにイメージはわいてくる。直接触れられてはいないが、こうした過程を見る中で、エクセルなどでおなじみの「関数」という概念もわかってくる。f(x)=・・・なんてのにさほどの恐怖は抱かなくなる、序章は合格。

第1章、論理学のお話。数学論理では、「AならばB」のAが偽だとすると、この文章は常に(論理的に)正しいことになってしまう。「地球が太陽系にないならば死後の世界は存在する」という文は「正しい」ことになってしまう。この日常の論理と数学論理の齟齬は何となく理解していたが、著者は日常の言語ではAとBの因果関係をも示唆するゆえに不自然さがつきまとう、と簡明かつ的確に指摘する。第1章、及第点。

第3章くらいから何かおかしくなってくる。著者は数学屋のふりをすることをやめて、本職の経済学屋に戻っていくからかもしれない。いかにも胡散臭くなってくる。数学・経済学の「利潤最大化」「選好最適化」を用いて、例えば犯罪行動を分析する--例えば殺人の快楽と見つかったときの懲罰による苦痛とを内面的な選考で比較して、人は殺人を行うかどうか決定する--ようなことは粗暴な逸脱だと著者は言う。その一方で、「アローの一般可能性定理」--二者択一投票による集団の選択が推移律として合理的でない、点数投票によるそれは独立性という合理性を満たさない--で民主主義を計ろうとする。つまり、個人の意見の集合体が、合理的に集積するのは不可能だということをもって、民主主義の不可能性を示唆して何かいい気になっている。なんというか、中途半端な偽悪趣味である。同じ数学から発する問いと答えであるならば、犯罪心理も民主主義の不可能性も等価である。民主主義をどこか突き放して見て、絶対の真理という呪縛から解き放つなどという仕事は、別に他の作家がもっとうまくやっている。

挙げ句の果てに、数学は役に立つのではなく、そこにあるからよいなどという結語に至っては、もはや理屈にさえなっておらず、ラッセルの如く数学者から哲学者、哲学者から社会学者などという華麗な舞は難しいと感じさせられる。ウィトゲンシュタインを持ち出したりもするのだけど、どうにも半端。

宇沢弘文の、「日本の国土をもっと広く使うためには、すべての電車の速度を半分に落とせばいい。そうすれば、国土を今の四倍に使うことが出来る」というのは、面白い。が、「宇沢は経済学者であるものの、出身は数学科なので、こういう距離空間論を背景としたユニークな発想が出来た」というが、著者がこの本でしなければならなかったことではないのか。

結論、イマイチ。一章で一冊書いた方が建設的だったんじゃなかろうか?

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