『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』 蓮實重彦

青土社 1988 通読 A5 ハードカバー A+ 4950円 A区立図書館 04/7/15-8/20

マクシム・デュ・カンとは、フローベールの友人として知られる二流三流の文学者である。私がその名前を知ったのが、ボードレール『悪の華』の訳注だった。そこに、こうある。「マクシム・デュ・カンは巴里に生まれ、バーデンに死んだ文学者であり旅行家であり、「巴里評論」「両世界評論」「デパ新聞」等に寄稿した詩人で小説家で文芸批評家で社会学者で歴史かで進歩主義雑文家である」 一体彼は何ものなのか、興味をそそられた。そこに、マクシム・デュ・カンに関する殆ど唯一のまとまった書物がこれである。800頁にわたる大著である。重さはゆうに一キロを超え、読んでいると目より先に腕が疲れる有様である。

蓮實重彦という人はもっと面白くない文章を書く人かと思っていたが、これは面白い。章ごとに独立した形式をとっているので、大著ではあるが10〜20頁ごとに区切りがつけられていて読みやすい。

著者は凡庸さを、「それはたんなる才能の欠如といったものではない。才能の有無にかかわらず凡庸さを定義しうるものは、言葉以前に存在を操作しうる距離の意識であり方向の感覚である。凡庸な芸術家とは、その距離の意識と方向の感覚とによって、自分が何かを代弁しつつ予言しうる例外的な非凡さだと確信する存在なのだ」「凡庸さとは、才能の不在とは根本的に異質の、より積極的な資質」と定義する。以降このテーゼにしたがって「凡庸な芸術家」のまさに肖像が描かれていく。その全てが、凡庸であるにもかかわらず、否、凡庸であるがゆえに、凡庸さに包まれた時代に生きる私の心を打った。マクシムが凡庸であったがゆえに、かえって時代を先取りしていた事例を著者はつぶさに見て取っていく。「凡庸さは感染し、共有され、人を保護する快い環境ともなりうる」と著者が言うとき、それは現代である。

社会科学的な論考も所々に見られ、楽しませる。「教師への暴力的な反抗。学校からの逃亡。自殺未遂。これらの振舞いは、いずれも規律に服そうとはしない非行少年のそれである。不良と呼ばれるこの種の異分子が、義務教育のほぼ初期的な確立期にすでに存在していたことに注目しよう・・・不良は、そもそもの初めから、教育制度の一要素として誕生したものなのである(235頁)」「政治をいっさい語らないという姿勢がいかに政治的なものかを証明する事実だともいえるし(380頁)」「新聞に挿入されていた号外を見て、多くの人がギュスターヴの死を確信しえたのは、その事実を語っている文章が不特定多数の読者に同じ事実を伝えていたからにほかならない。新聞記事の持っている事実を伝達する機能とは、まさにそれなのだ(753頁)」

近代の到来を感じ、詩の革命を訴えたマクシム。だが「蒸気機関車」と題された詩のつまらなさは現代の我々の失笑を買う。そして中東へ旅行に行くマクシム。そこで新しい技術である写真を撮り、持ち帰るマクシム。その旅行のさなか、マクシムは自分をあたかも外交官のように「捏造」する。「彼は、国家による自己同一性の保証を獲得することで、旅から、ロマン主義的な放浪という側面も、教養小説的な試練の側面も、ともに消滅させてしまったのだ。その意味で、マクシムは旅行を制度的に近代化したと言えるだろう(260頁)」にもかかわらず、記帳した彼は旅の文学的な近代化を小説に反映できない。老境を迎え、詩的才能小説の才能の欠如を悟ったマクシムは、パリの都市論に取り組む。散文でつづられた文章は「行政的文学」と揶揄されるものの、都市論の先駆けといってもよいものだった。しかし、そこでも彼は特権的地位からの語りしか出来ないことによって凡庸さを露呈する*1。フローベールの死を深く嘆くマクシム、しかし新聞や雑誌や世論は、マクシムの回想を読んで「才能に欠けた友人の嫉妬に満ちたフローベール攻撃」という「凡庸」な物語を作り出す。

何かものを書きたいとか、絵を描きたいとか写真を撮りたいとか、「芸術」に関わりたいと思い、それをどこかで諦めた人は必ず読むべき著作。マクシムに自己を投影して深い感動に襲われることは間違いない。

800頁、「再読不能の名作」と評したい。

*1 この一文はちょっと原著と違う不正確な表現だが、もう一度読む気にならないので勘弁願いたい。

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